2010年11月25日

ふたたび収益還元法について

           
ふたたび収益還元法について
 

 ここに収益を得られる建物があるとします。(土地に定着していないで、宙に浮いていると考えてください)この建物は徐々に老朽化し、n年で使いものにならなくなります(朽廃するとします)。

収益から費用(減価償却費は含みません)を差し引いた残余を純収益ということにして、これをαであらわします。

1年目の期末の純収益はα1、で2年目の期末収益はα2で、i年目の期末の純収益はαi、n年目の期末の純収益はαnということにします。

突然ですが、1 /(1+r)i は複利現価率といわれるものです。

rは割引利率です。(この不動産投資の)期待利回りともいいます。この式はi年後の期末に得られる1円の現在価値をあらわしています。
例えば5年後の期末に得られる100万円の現在価値は
 
100万円 × 1/(1+r)5となります。仮にr(割引利率)を5%にしますと
 
100万円× 1/ (1+0.05)5 = 100万円×0.7835≒78万円になります。


下の式は各年の期末の純収益の現在価値を合計したものですが、これはこの建物の理論価格をあらわしています。
P= α1×1/(1+r)1+ α2 × 1/(1+r)2 +・・・+αn ×1/ (1+r)n

ところで、この式は建物の理論価格をあらわすだけのものではありません。資産の理論価格全般をあらわしています。αを配当と考えれば株式の理論価格になります。

αを土地から得られる純収益と考えれば土地の理論価格になります。ただ、土地の場合は建物のように朽廃することはありませんから、その場合、nは無限大(∞)になります。

また、土地と建物(複合不動産)の場合は、上記建物と土地の組み合わせとなり、やや複雑なかたちになります。収益が続く期間を土地に合わせて無限大とする場合は、n+1年後以降も継続して収益を得るために、n+1年後までに新築建物の再調達費用を上記費用とは別途に確保する必要があります。つまり新築建物の減価償却費が必要になります。

従ってこの方式は「中古建物とその敷地」には適用できなくなります。

また、収益が続く期間を建物に合わせて有限とするにはn年後の土地の復帰価格をどう査定(予測)するかの問題があります。

いろいろ書きましたが、いずれにしても収益還元法は将来の想定(予測)純収益を現在価値に置き直す作業でしかなく、そこで算出される価格は(具体的な)人間の頭の中にのみ存在する理論価格で、人間の頭の外に存在するものではありません。

人間の頭の外に公正なる、真実なる、あるいは万人が納得する収益還元法があらかじめ存在しているわけではないのです。

収益還元法による収益価格は、現実の市場における不動産の交換価値(市場価格)ではありません。

不動産の鑑定評価理論では収益還元法は鑑定評価額を求めるための一手法になっていますが、それでは鑑定評価理論では、収益価格(理論価格)がどこで、どのような理由で交換価値(市場価格)に昇華(転化)するといっているのでしょうか。

結論からいえば、このことに関する説明は特にありません。鑑定評価理論では「三方式で求めた価格は理論的には一致する」ことが自明のことと考えられているからです。

例えば日経文庫「不動産評価の知識」(武田公夫)130頁には次のように記述があります。

「各方式の適用によって求められた試算価格または試算賃料は、理論的には一致するはすですが、資料の不足などにより各価格に開差が生ずるのが普通です。」

このように「理論的には一致する」ことになっています。現実には、一致しないことがほとんどですが、それは「資料の不足など 」のように、収益還元法を適用する側(鑑定士)にその原因があるので、その場合は鑑定評価作業の最後の段階で、「各試算価格を調整して鑑定評価額を決定」しなさいと、いうことになっているのです。

ここ少し興味深い話を紹介したいと思います。日本不動産研究所の元専務理事・鑑定部長の故高橋敏氏が「日本不動産研究所50年史」の50周年記念対談で語られていることです。
少し長くなりますが、我が国の不動産鑑定評価制度の黎明期のことが語られていますのでそのまま引用させていただきます。

『そのときに基準でどうしても気になっていたことがあるんです。鑑定評価基準は櫛田理論の基本的考察が基礎になっている。
しかもそれを積み上げて理論化したのが門脇さん、それから実務を知っていて参加したのが嶋田さん。
こういう方々が基本をつくられたのだけれども、残念ながら櫛田さんと門脇さんは実務を知らない方で、頭で考えてそこまで作り上げた。

それは理論的には実にすばらしい。だけど実際に第一線で評価していると、一番ひっかかりが出たのは、3方式を使って出てきた試算価格が必ず一致するという考え方が本当に正しいのだろうかということ。

どうも実際にやっていると、どんなに努力してもなかなか一致することはない。私が仙台に入所したときも、当時は地価上昇期だから、どうしても比準価格中心にものを考えていた。地価公示も3方式を使うことにはなっているけれども、比準価格を中心にやってもいいよというのが当時の考え方だった。

だけど私は櫛田さんが3方式は理論的には一致すると言っているのだから、本当に一致するのかどうか実験しようと思った。当時の仙台支所は、誰も収益価格はやらない。

審査部長だった野間口さんも、収益価格なんかあてにならないということを口に出していたくらいだし、実際に地価がどんどん上がっているから比準価格でやらないと笑われてしまうような数字が出るから、当時は比準価格が中心だった。

それが一つの問題だと私は思ったわけね。収益価格をやってみる、複成現価(原価法による積算価格)もやる。求められた試算価格は絶対に合わない。どんなに努力したって合わない。

それでも必ず収益価格はやりました。一番記憶に残っているのは、山形県の上山競馬場の評価。収益価格を出しちゃったんです。今考えると恥ずかしいぐらいのお粗末な収益価格だけれども、その利回りはどうやって正確なものをつかむのか。

そのときすぐ気がつくのは、利回りをちょっと、0.5%ぐらい変えても結論がこんなに動くのでは、野間口さんがあてにならないといっていたとおりだな。

利回りを動かせば確かに合うんです。その動かした理由を、今のGNPの上昇率は5%から7%だ。だから危険負担を考えて、ここまで下げても大丈夫だという理屈をつけちゃった。

だけどそれはやっぱり無理なんです。だからこれは一致しないということを前提にむしろ考えたほうがいいんじゃないか、そう考えるようになったんです。』

「三方式で求めた価格は理論的には一致する」ということが鑑定評価理論では何故自明のこととなったのか、私はこの高橋敏氏の話で少しわかったような気がします。


我が国の鑑定評価制度の黎明期では、伝統的経済学のパラダイムでのワルラス的な均衡価格が鑑定評価で求めるべき「正常価格」である、と真面目に考えられていたのではないか?、少なくとも櫛田さんはそう考えられていて、当時の正常価格はそのような均衡価格としてイメージされていたのではないか?、ということです。

この「理想」が現在の鑑定評価理論にも多少かたちを変えて引き継がれているのではないか、そのように思います。

平成15年1月の「基準」の改正で「正常価格」の定義が書き換えら、(正常価格の解釈としては)黎明期の「理想」からはだいぶ離れたように思いますが、完全に離れたわけではなく、それは「合理的と考えられる条件を満たす市場」という言葉に象徴されて残っているのではないか、そのように考えられます。

現実の不動産市場は伝統的経済学のパラダイムとは違います。現実の不動産市場では「情報は不完全」です。投機的な思惑ももちろん存在し、それを市場から切り離すこともできません。金融理論でいう「裁定」も勿論はたらきません。

「三方式で求めた価格は理論的には一致する」ということを認める理由は特に見あたらないのです。

「不動産の価格」の問題は「価値論・価格論」に属する分野です。私は我が国の経済学者が不動産鑑定評価理論をどのように見ているのかは知りませんが、そのよってたつ根拠を、科学的、論理的に突き詰めていけば、現在の「不動産鑑定評価理論」は保たないと思っています。

私は、「不動産鑑定評価」がくだらないとか、意味がないとかいっているのではありません。むしろ逆で「制度としての不動産鑑定評価」は必要なものだとだと思っています。ただ、鑑定評価理論の論理性、科学性を突き詰めていけば、不確実性という霧の中に迷い込んでしまうと思っています。

「制度としての不動産鑑定評価」にはそこまでの論理的厳密性は必要ないのではとも思っています。所詮は人間世界の問題ですから、「相対的真実」であればそれでいいのではとも思っています。少ししゃべり過ぎました。
話をもとにもどします。

収益還元法による理論価格が、鑑定評価で求めるべき交換価値・市場価格でないとすれば鑑定評価での収益還元法の役割とは何でしょうか?収益還元法には出番はないのでしょうか?

私はそんなことはないと思っています。現実の制度としての不動産鑑定評価では有用だと思っています。

不動産の鑑定評価の対象となる不動産にはいろんなものがあります。

例えば、住宅地の更地の場合ですが、住宅地では多くの場合、現実の市場における交換価値・市場価格が実際に目に見えるかたちで存在しています。

我々不動産鑑定士や宅建業者であれば、取引価格をある程度把握しています。一般の方であっても、近くの宅建業者を訪問して「このへんの相場はどのくらいですか?」と尋ねれば、たとえば「坪20万円ぐらい」という答えが返ってくると思います。また、インターネットで売物件情報などを調べれば大凡の傾向がわかると思います。

このように実際の交換価値・市場価格がある程度目に見えるかたちでわかっている場合には、収益還元法を採用することは全く意味がありません。

具体的なある場所の交換価値・市場価格を知りたい(あるいは証明して欲しい)と思って鑑定評価を依頼している人に、「現実の市場での交換価値・市場価格は坪20万円ですが、アパートの建築を想定して収益価格(理論価格)を計算してみたら坪15万円になります」と言ったとしても「それがどうした」と言われるのがオチだと思います。その人が欲してもいない情報を付け足したにすぎません。

ところが、都心にある大規模なテナントビルを評価する場合はどうでしょうか。

仮に、このビルのオウナーがAさんで、価格によっては買ってもいいと考えている人がBさんとします。このAさん、Bさんが共同で某鑑定事務所に鑑定評価を依頼したとします。このビルの交換価値・市場価値はまったく(あるいはほとんど)見えません。

同じようなビルの取引事例はめったにあるものではありませし、幸運にして仮に1件あったとしても、その価格がそのビルの交換価値・市場価値であるという保証はどこにもありません。

勿論宅建業者にこのビルの相場(?)はどのくらいですかと訊くわけにもいきません。「おまえの仕事だろう」ぐらいは言われると思います。

この場合の収益還元法はどうでしょうか?収益還元法による収益価格を提示して、鑑定評価額は50億円ですといった場合はどうでしょうか?。

この収益価格が交換価値・市場価値である保証はどこにもありませんが、この収益還元法に論理性があれば、何も見えていない現状ではとても有用ではないでしょうか?

勿論Aさん、Bさん双方が納得すれば鑑定士としては一番うれしいことですが、仮に双方が納得しなくとも、あるいはどちらかが納得しなくとも、論理性が一貫していればそれでOKではないでしょうか。
仮に双方が納得して売買が成立すれば、この売買によって50億円がこのビルの交換価値(市場価値)のひとつの見本値になるのです。収益還元法は有用です。私は収益還元法とはこのようなものだと理解しています。

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仙台市泉区 加茂神社の「いろは紅葉」です。
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2010年08月03日

不動産の流動性と不動産鑑定評価


不動産の流動性と不動産鑑定評価


いまここに、2つ(ふたつ)の物件と現金1,000万円があるとします。1、2の物件の価格は公示価格ベースと考えてください。

1.人口約100万人の仙台市泉区某所の住宅地200uの更地 1,000万円

2.人口約2万人の地方都市某所の住宅地500uの更地    1,000万円

3.現金(貨幣)1,000万円


これらはいずれも等価です。 等価ですから、現金1,000万円は1の土地と交換できます。 1の土地はまた、2の土地とも交換できます。

逆に2の土地は1の土地と交換できますし、勿論現金1,000万円とも交換できます。モノ(貨幣を含む)とモノは等価であれば交換はなめらかに行われます。

このような世界では貨幣は単なるヴェールにすぎず、原理的には物々交換の世界と同じです。

そこでは売ることは、買うことであり、買うことはすなわち売ることです。買うことと売ることは完全に対称的です。

しかし、このようなことは現実ではなく、ある種の物語(ストーリー)にすぎません。もし、このようなストーリーがさも現実であるかのように感じられるとすれば、それは多分、伝統的経済学のパラダイムが我々の頭にすり込まれてからではないかと思われます。

伝統的経済学が想定する人間は「ホモデコノミクス(経済人)」です。ホモデコノミクスは超合理的な存在で、意思決定を行うに際して完全な情報を有し、完全な計算能力を有し、自分の満足すなわち効用を最大化できると考えられています。(注1)

このよう人間が活動する場(市場)は完全に組織化され、「一物一価」の法則が成立します。このような世界ではさきの「なめらかな交換」が可能なはずです。

しかし、現実はどうでしょうか?

貨幣1,000万円は(1,000万円を持っていれば)、1の土地(と似たような土地も含めて)と比較的容易に交換できるかもしれませんが、1の土地を持っていても、これを貨幣1,000万円と交換するのは容易なことではありません。

まして、2の土地を貨幣1,000万円と交換することはさらに容易なことではありません。売れないかもしれません。

話が少し飛躍しますが、例えば、私が20年前に買った「森鴎外全集」を持っていて、これを売りたいと考えているとします。 いくらで売れるでしょうか。

「売り方」はいくつか考えられます。

「インターネットを利用する。 古本屋に持っていく。路傍に陳列して買う人を捜す」などです。この場合、売れる価格はそれぞれ異なると考えられます。

仮に手っ取り早く、古本屋に1,000円で売ったとして、今度はそれを古本屋で売りに出すと3万円で売れるかもしれません。

不動産の場合も事情はほとんど同じです。

私が、自宅が古くなったので更地にして売りたいと考えているとします。近くの公示地と同じ単価として計算すると1,000万円になります。この価格で売れるでしょうか。売れるかもしれませんが、売れないかもしれません。半年後に売れるかもしれません。

なかなか売れない場合、仲介を頼んでいる不動産業者が「700万円だったら買ってもいいですよ」と言うかもしれません。

なかなか売れないので、その不動産業者に700万円で売ったとして、今度は不動産業者はそれを1,200万円で売りおおせるかもしれません。

あるいは、そこに1,000万円かけて建物を建てて、2,500万円で売るかもしれません。
その場合700万円の土地が1,500万円に化けたことになります。

「現実」とはこのようなものです。「一物一価」は成立しないのです。

冒頭で取り上げた、2つ(ふたつ)の物件と貨幣1,000万円の話に戻ります。

現実の経済では、貨幣1,000万円で土地1,000万円を買えても、土地1,000万円で貨幣1,000万円が買える(交換できる)というわけでは必ずしもありません。

買うこと(貨幣とモノとの交換)と売ること(モノと貨幣との交換)は非対称なのです。

いま仮に、貨幣の流動性を100とした場合、1の土地の流動性を70、2の土地の流動性を50とします。そして、ここで1の土地と2の土地を比較すると、次のような疑問がわきます。

「両者が等価といっても流動性が70と50という異なった土俵の上での話であり、この状態で「両者が等価」というのはおかしいのではないか、両者を比較するには両者を同じ土俵にのせる必要があるのではないか?つまり1の土地と比較すると、2の土地の価格は高すぎるのではないか、」という疑問です。

普通モノは売り出し価格を下げれば流動性が改善されます。仮に今、2の土地の価格を500万円に下げれば、流動性が1の土地と同じ70になるとします。これが2の土地の(1の土地を基準とした場合の)本来の価格ではないかというわけです。

この理屈を貨幣にあてはめたらどうなるのでしょうか? 同じ理屈でいけば、「流動性が50の(2の)土地は、流動性が100の(3の)貨幣と比較すると高すぎるのではないか?」ということになります。

確かに2の土地の売り出し価格を下げれば流動性は改善されます。例えば100万円に下げれば、流動性が90になるかもしれません。

しかし、いくら下げても流動性が100になることがありません。(限りなく100に近づけることはできます。例えば売り出し価格を50万円にすれば100に近づくかもしれません)。つまり、貨幣と比較すればどんな価格でも(評価額でも)高いということになってしまいます。

つまりこういうことなのです。

1の土地の価格は流動性が70という括弧つきでの1,000万円であり、2の土地の価格は流動性が50という括弧つきでの1,000万円なのです。

そして、モノの価格が高いか、安いかという比較は他のモノとはできますが、貨幣とはできないということです。例えば定価1,000円のモノと貨幣1,000円を見較べて、そのモノが1,000円で妥当なのか、否かという比較はできないということです。

そのモノの価格が高いか安いかというのは、対貨幣との問題ではなく、他のモノ(の価格)との間の問題なのです。つまり、2の土地の価格の比較は、対貨幣ではできませんが、対1の土地とは可能だということです。

くり返します。

「等価なモノどうしでは(なめらかな交換)が可能」というのは物語でしかありません。現実にはモノは互いに等価であっても、それぞれ流動性が異なります。

例えば時価1,000万円の上場株式を1,000万円の貨幣と交換するのは比較的容易です。株式市場がほぼ完璧に組織化されているからです。しかし、さきの2の土地を貨幣1,000万円と交換するのは容易なことではないのです。

ところで「不動産鑑定評価」のはなしです。

不動産鑑定評価で求める価格は「正常価格」です。鑑定評価書には、それがどこの鑑定業者のものであっても、次のような文言が書いてあるはずです。

「本件鑑定評価は、現実の社会経済情勢の下で合理的と考えられる条件を満たす市場で形成されるであろう市場価値を表示する適正な価格を求めるものであり、求める価格は正常価格である。」

ここでいう「合理的と考えられる条件を満たす市場」の内容は必ずしも明確ではありませんが、少なくとも伝統的経済学で考えられている(ワルラス的な)パラダイム(完全競争市場)とは異なるものと考えられます。

かといってそれは「現実の市場」でもないのです。私の勝手な推測ですが、それは両者の中間的なものではないかと考えられます。そこでは、積極的ではないにしても「なめらかな交換」が前提になっていると考えられます。勿論「一物一価」も前提です。

つまり、現実の不動産市場は「なめらか」ではないのですが、制度としての鑑定評価は「なめらか」な交換が前提になっていると考えられます。

「なめらか」ではない現実の世界では、モノ(商品)は「使用価値」、「交換価値」という次元のほかに「流動性」の次元を持っているのですが、不動産鑑定評価理論にはこの「流動性」の概念がありません。制度としての鑑定評価は「なめらか」な交換が前提になっているからです。この齟齬が我々不動産鑑定士を悩ませます。

例えば、某役場から、売却処分の目的で、冒頭の2の土地の鑑定評価を依頼された場合、1,000万円と評価しますと、この価格は流動性が50という括弧つきでの1,000万円ですからほとんど売れない(売れない可能性が高い)という結果になります。

この矛盾は、競売不動産の評価の場合さらに顕著なものとなります。競売(評価)の目的は「売る」ことです。競売手続きは継続的に行われています。評価の結果はすぐ「売却」あるいは「不売」という結果となって現れます。売れなければ(売却率が低い状態が続けば)当然「何のための評価か?」という非難になります。

これらの根本的な原因は、いままでクドクドと述べてきた、買うこと(貨幣とモノとの交換)と売ること(モノと貨幣との交換)の非対称性にあります。

「鑑定士の評価額が高すぎる」という単純な問題ではないのです。

我々はこの流動性の問題を不動産鑑定評価理論に取り込む必要があると思います。「売れないから評価額を下げる」という理屈は理論ではありません。


(注1)中公新書・衣田高典・「行動経済学(注1)中公新書・衣田高典・   「行動経済学」・6頁から借用しました。
(注2)流動性:貨幣そのものをいうこともありますが、ここでは等価な他    のモノを自由に購入できる力のことです。

国後.JPG
羅臼町から見た国後です。こんなに近くに見えるとは思いませんでした。
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2010年03月13日

不動産価格の不確実性と不動産鑑定評価

不動産価格の不確実性と不動産鑑定評価


不動産の価格(市場)は仕組みの見えない不確実性です。

今ここに、歪みのない九面体のサイコロがあるとします。もちろん、どの目がでる確率も等しく9分の1です。このサイコロの面には確率変数が次のように刻んであります。

確率変数  
1面 3万円
2面 4万円
3面 4万円
4面 5万円
5面 5万円
6面 5万円
7面 6万円
8面 6万円
9面 7万円

このサイコロの仕組みは既に見えています。 
期待値は、
(3万円×1/9)+(4万円×2/9)+(5万円×3/9)+(6万円×2/9)+(7万円×1/9)=5万円 です。ついでに標準偏差も計算してみますと、約11,547円になります。

この場合はそれぞれの面がでる確率が9分の1とわかっているので、期待値が計算できました。
もし、この確率がわかっていないとしたらどうでしょうか?
その場合、上のような算式では期待値は計算できません。それでは実際にこのサイコロを転がしてみたらどうでしょうか?

そこで転がしてみます。といっても、表計算ソフトのエクセルの画面上での話です。

エクセルには一様乱数を発生させる関数が用意されています。どれかのセルに=RAND() と打ち込めば、0.814152・・・などという小数点第15位までの乱数が表示されます。

この乱数は0〜1までのどれかの数字をパソコンがデタラメに選んで表示させたものです。(以下、乱数は小数点6位までしか記しません)

そこで、数字の0〜1までを、@0〜0.111111以下,A0.111111超〜 0.222222以下,-------,H0.888888超〜1以下と 9分割して9面体のサイコロのサイの目に見立てます。例えば、発生させた乱数が0.814152ならば、第8面の6万円が出たと考えます。

あらためて、乱数を発生させてみます。F9キー(再計算キー)を押します。今度は0.993561と出ました。計3回発生させてみました。

1回目 0.814152  8面:6万円
2回目 0.993561  9面:7万円
3回目 0.097712  1面:3万円

となりました。

この平均は5.3万円となります。実際の期待値(5万円)にかなり、近い値が求められました。偶然かもしれませんので、さらに転がしてみることにします。3回転がすことを1セットと言うことにして、3セット試してみます。

(2セット目)
1回目 0.858086  8面:6万円
2回目 0.047482  1面:3万円
3回目 0.391301  4面:5万円
平均 3.8万円
(3セット目)
1回目 0.685655  7面:6万円
2回目 0.317710  3面:4万円
3回目 0.764041  7面:6万円
平均 5.3万円


2セット目は期待値(平均)からやや外れましたが、それでも全体的には比較的近い値が得られるようです。

このような限られた「転がし」(以下試行といいます)回数で実際の期待値(この場合は5万円) に近いモノが 得られるかどうかは、母集団(この場合は9面体のサイコロの目)の標準偏差(期待値からのバラツキの程度) に依存しています。

このサイコロの場合は、確率(分布)が解らなくても実際に試行してみることによって母集団の期待値が推測できました。

ところが、現実の不動産市場では1回も試行することができません。ある不動産の期待値を知りたいと思っても、実際に売ってみるわけにはいかないのです。また仮に売ってみたとしても、たった1回だけの試行では母集団の期待値を推測することは出来ません。

ところで、もし今ここに、現実の不動産市場を100%完璧に模倣できるシュミレーションシステムがあるとしたらどうでしょうか。ある不動産の価格(期待値)を知りたいと思ったら、このシステムを起動させて、その不動産を売りに出してみればいいのです。

もちろん1回だけの試行では心もとないので、何回か売りに出してみます。何百回でも試行できます。おそらく100回もやれば完璧に近い答え(母集団の期待値)が得られるのではないでしょうか。

人類の科学はこれからも、進歩していくと思いますが、残念ながら、これから何百年経ってもこのようなシュミレーションシステムが現実のものになることはないと思います。

しかし、見せかけだけのシュミレーションシステムなら今すぐにでも作れます。

前にも書きましたが、私は仙台市北西部の某住宅団地に住んでいます。この団地は金太郎アメみたいにどこの画地も似たりよったりで、価格差(各画地の期待値の差)はかなり小さいものと思われます。

そこでまず、実際の取引事例価格から、我が家の(更地価格)の期待値と標準偏差を推測してみました。取引時点が平成21年1月〜同年12月の間に発生した実際の取引事例から、期待値はu当たり48000円、標準偏差は8000円と推測しました。(この数字が妥当か否かは本論の主旨とは関係ないのでとりあえず正しいものと思ってください。)

また、エクセルの画面に戻ります。今度はどれかのセルに、
=RAND()+RAND()+・・・+RAND()とRAND()を12回足し合わせた後、最後に−6と打ち込みます。セルには、0.183320・・・などというデタラメな数字が表示されます。
ここに表示されたのは、期待値(平均)が0、標準偏差が1の確率変数の見本値で、標準正規乱数といわれるものです。(注1)

この乱数(例えば0.183320)にさきほどの我が家の更地価格の標準偏差を乗じ、期待値(平均値)の48000円を足します。

0.183320×8000円+48000円=49467円 と
なります。

これが我家を更地にして売却した場合の価格です。
1回だけの売却では心もとないので、5回売りに出してみました。

第2回目 −1.336989×8000+48000=37304円
第3回目  1.083321×8000+48000=56667円
第4回目 −1.552421×8000+48000=35581円
第5回目  0.485500×8000+48000=51884円

第1回〜第5回の価格の平均は、46180円です。母集団の期待値(平均値)48000円にかなり近い値ではないでしょうか。(ナヌ!そうでもない?)。

鑑定評価の方式のひとつに、取引事例比較法があります。ふつうの鑑定評価では取引事例を4〜5個利用することが多いようです。上の5回の試行はこの取引事例比較法を模倣したつもりです。実際の取引事例比較法は事情補正、時点修正、標準化補正、地域要因修正と判断が多く入りますが、上の模倣は、これらの判断が全く入り込まないので、完璧な取引事例比較法だといっていいと思います。なにしろ我が家そのものの(更地)の取引価格ですから。

ところで、毎年1回、地価公示と地価調査の調査結果がマスコミで発表されますが、その際に注目を集めるのが、地価の対前年変動率です。対前年比−3.2%(我が団地内の公示地の平成21年1月の価格の対前年比変動率です)などと発表されますが、対前年比−3.2%などという数字は実際に算出が可能なものでしょうか?

さきの我家の例で、母集団の期待値(平均)を48000円、標準偏差が8000円としました。もし、この母集団の期待値(平均)が3.2%下落したとしたら、それが取引価格でどう現れるでしょうか。

実際に試してみることにします。

さきと同じ方法で、我が家を更地にして売りに出してみることにします。母集団の期待値(平均)を48000円×(1−0.032)=46464円として、標準偏差はさきと同じく8000円とします。

5回売りに出してみます。

第1回目 −0.901058×8000+46464=39256円
第2回目 −0.584780×8000+46464=41786円
第3回目  0.455900×8000+46464=50111円
第4回目 −0.405005×8000+46464=43224円
第5回目 −0.384354×8000+46464=43389円

平均は43553円になりました。前年の価格は母集団の平均値が正しく求められたと仮定すると48000円ですから、対前年比−9.3%になり、母集団の対前年比の−3.2%とはずいぶん(?)違います。もう1セット試して見ることにします。

第1回目  0.129362×8000+46464=47499円
第2回目  0.392514×8000+46464=49604円
第3回目  2.019485×8000+46464=49585円
第4回目 1.232760×8000+46464=56326円
第5回目  0.255459×8000+46464=48508円

今度は平均で52911円、対前年比+10.2%になってしまいました。母集団の対前年比の変動率−3.2%とは似ても似つかない数字です。

ずいぶんと、回りくどい話をしましたが、要するに、このような方法(取引時事例比較法)では対前年比の−3.2%などという数字を算出することはできないのです。もしできるとしたら、母集団の標準偏差がほとんど0の場合に限られるのです。(注2)

不動産の鑑定評価とは、つまるところ「不動産市場の不確実性を見つめた果て」の「主観的判断」にほかなりません。対前年比の−3.2%という数字は、今年の主観的判断の結果と昨年の主観的判断の結果を比較したものなのです。しかし、鑑定評価に求められるのは、その主観的判断の蓋然性の客観的根拠です。矛盾していますがそうなのです。

鑑定評価理論の中には「不確実性」という概念はありませんが、不動産鑑定評価は科学ではなく「制度」ですから、これもまたやむを得ないことだとは思います。

もし私が依頼者に向かって、「1億円と評価しましたが、不動産市場(価格)は不確実ですから、1億円でない場合もあります」などと言えば、依頼者は鑑定料を支払う気がなくなるばかりか、私の人格までも疑われかねません。

(注1)一様乱数を12個たすと、平均が6、標準偏差が1の正規乱数になります。これは「中心極限定理」によるものです。この正規乱数から6を引けば平均が0、標準偏差が1の標準正規乱数になります。「中心極限定理」について、興味のある方はネットや統計学の本で調べてみてください。

(注2)念のため、標準偏差を1000円にして試してみます。
母集団の平均が、48000円×(1−0.032)=46464円の場合は、

第1回目  0.470256×1000+46464=46934円
第2回目 −0.564118×1000+46464=45900円
第3回目 −1.939637×1000+46464=44524円
第4回目 0.894701×1000+46464=47359円
第5回目  0.273099×1000+46464=46737円

平均は46291円で、対前年比−3.6になりました。母集団の−3.2%に一致はしませんが、かなり近い数値にはなりました。
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2009年11月03日

共同幻想としての地価

共同幻想としての地価


 経済学ではモノの価格は需要量と供給量が一致する点で決まる、ということになっています。この法則は私達不動産鑑定士が実際に不動産を評価するについては、さしあたり何の役にもたちません。

あるモノの価格が例えば需要量と供給量が均衡している点の1万円であるとして、この状態を前提にして、需要が増えれば、このモノの価格は1万円以上になるということは容易に理解できます。

しかし「均衡している状態での1万円はナゼ1万円であって、2万円や3万円ではないのか」という疑問は依然として残ります。

モノの本源的な価値は人間の欲望に対応しているそのモノの効用(使用価値)にあるのは間違いありませんが、交換価値(市場価値)はこれとは違った文脈の中にあります。

例えば株式の本源的な価値は、企業から将来にわたって配当を受け取る権利ですが、モノの本源的価値=交換価値であるならば、理論的にはこの株式の交換価値(価格)はこの将来の配当の資本還元額になるハズです。

しかし現実の株式の価格(交換価値)はそうなってはいません。株式市場で日々取引される価格以外に株式の価格はありえません。

もし、株式鑑定士なるものがいて、「取引価格は本源的価値からの逸脱であるので、本源的価値を体現している資本還元額で取引しましょう」と説いて廻ったとところでどうなるものでもありません。

このような理屈は世の中ではまったく相手にされないでしょう。それでは日々取引される株価の不安定性は経済学ではどのように説明されるのでしょうか。

例えば、「二十一世紀の資本主義」(岩井克人・ちくま学芸文庫)に「投機」に関する次のような理論が紹介されています。J・M・ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」第12章にある理論だそうです。

じつは経済学では「投機」や「バブル」に関する理論というのはではほとんど見かけないのだそうで、ケインズのこの理論は「美人コンテスト」の理論として有名なのだそうです。

『つまり・・・(略)・・、投機家が心を砕かなくてはならないのは、株式を、<永久に>保有するために買う人がそれを実際どのように評価しているかではなく、市場が、集団心理の影響のもとで、それを3ヶ月後や1年後にどう評価するかなのである。そのためには、単に平均的な投機家が企業の将来の利潤をどう予想するかを予想するのではなく、平均的な投機家が企業の将来の利潤をどう予想するかを予想するか(この繰り返しはワープロミスではありません・沓澤)を予想しなければならず、さらにまた・・・・・。そして、予想のこのような無限級数的な累積過程は、株式市場において日々決定される株価を、本来それが表示しているはずの企業の予想利潤とはまったく無関係な水準に乱高下させる可能性を生み出してしまう。』

不動産鑑定評価の話(2/5)で、モノの交換価値はそのモノに実体的に存在する力ではなく、他のモノとの関係性・差異性にすぎないと書きましたが、「投機的市場」ではその非実体性(空虚さ)がさらに深化しているというべきでしょうか。

予想の予想の予想・・・の結果が1万円の株価だとしたら、もはやそれは「共同幻想」というべきものです。私は市場で取引されるあらゆるモノの価格には多かれ少なかれこの「共同幻想」が含まれていると思いますが、特に株式や不動産はこの「共同幻想」が生じやすいモノなのだと思います。

重要なことは、この「共同幻想」が多く含まれていようと、少し含まれていようと、それが我々が持ちうる唯一の市場価格(交換価値)だということです。

突然大きな話で恐縮ですが、資本主義は産業資本主義から(金融部門が肥大化した)金融資本主義へと移り変わり、グローバリゼェーションとともにお金がわずかな金利差や、運用利回りの差を求めて、容易に国境を越えて移動するようになりました。

「投機」が経済活動の大きな部分を占めるようになり、資本主義は「共同幻想」を多く含むようになったのです。

最近の都心商業地域で起こったミニバブルといわれる現象もこの大きなうねりの中で起こりました。面白いことに、この「投機」は「収益還元法重視」のかけ声と一緒に起こりました。不動産の本源的価値の希求であるハズの「収益還元法」と「投機」がセットで現れたのは皮肉としかいいようがありません。

結果として「収益還元法(DCF法)」は「投機」の正当化のために利用されたように思えます。

最近しきりに云われている「収益還元法の精緻化」はそれはそれで大事なことだとは思いますが、残念ながら収益還元法には市場に影響を与えるような力はありません。「共同幻想」を「本源的価値」に引き戻すような力はありません。

収益還元法は個人が投資採算価格を求めるために利用するものです。世の中に「適正なるあるいは公正なる収益還元法」があらかじめ存在しているわけではないのです。

PICT7795.JPG

仙台市太白区茂ヶ崎にある仙台市野草園の「宮城野萩」です。

今の仙台平野は昔「宮城野」と呼ばれ、王朝人にとってのあこがれの土地だったということです。
司馬遼太郎は「街道をゆく(仙台・石巻)」(朝日文庫)で宮城野についての次のような印象的な文章を残しています。
「王朝の頃、宮城野のひろさ、その上に浮かぶ白い雲、野や原に咲き乱れる萩、こぼれる花、ゆたかな川の流れ、気品に染まるやまなみすべてが大宮人のあこがれであった。」

なかでも、「宮城野の萩」はしきりに古歌に詠まれ、宮城野の象徴であったようです。
陸奥守の橘為仲という人が任期を終えて都へ帰るとき、宮城野の萩を長櫃におさめて都まで運びました。このとき「宮城野の萩」を見るために、人々が二条大路にひしめきあったということです。

この時の(古歌に詠まれている)宮城野の萩は今の「宮城野萩」ではなく、今も仙台市周辺に自生している「キハギ」「ツクシハギ」「「ヤマハギ」等ではないか、ということです。


PICT7789.JPG

ダブルクリックするとハッキリ見えます。

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2009年07月17日

不動産鑑定評価の客観性

不動産鑑定評価の話(5/5)

できれば、古い方から読んで下さい。

「あるべき価格論」からの脱却


 不動産鑑定評価基準(以下「基準」といいます)は、不動産鑑定士が鑑定評価を行うにあたって拠り所となるものですが、この「基準」は平成15年1月に大改正があり、この時、不動産鑑定評価で求めるべき価格である「正常価格」の定義も大幅に書き換えられました。

その時の改正箇所の「解説」に次のようなものがあります。

『不動産鑑定評価で求める価格は、現実の社会経済情勢から乖離したいわゆる「あるべき価格」であるとの主張がしばしばあったが、今回の改正により、「不動産鑑定評価で求めるべき価格は現実の社会経済情勢を所与とした上での市場及び市場参加者の合理性を前提とした市場で成立する価格、すなわち「ある価格」であることを明確にしたものである。』

このように、「不動産鑑定評価で求めるべき価格」は「ある価格」であると断言しています。(あるがままの価格とはいってないことは微妙な感じがしますが)

しかし、この文章で見られるとおり、所与とされているのは現実の社会経済情勢だけであって、現実の不動産市場は所与とされていません。
素直に読めば、「現実の社会経済情勢の中での、ある程度理想化された不動産市場を前提としなさい」といっているようにも受け取れます。

ことの真偽のほどはともかくとして、実際の不動産鑑定評価の世界では「あるべき価格論」は思考の間隙をついてことあるごとに顔を出します。

例えば「基準」の「第7章第1節W」に次の文言が出てきます。『なお、市場における土地の取引価格の上昇が著しいときは、その価格と収益価格の乖離が増大するものであるので、先走りがちな取引価格に対する有力な検証手段として、この手法(収益還元法のこと)が活用さるべきである。』

何と対比しての「先走り」なのか説明されていませんが、「あるべき価格」と対比してではないかと思われます。そして「収益価格が(ほぼ)あるべき価格だ」と言っているようにも受け取れます。

また、不動産鑑定業者や各県の不動産鑑定士協会のホームページを見ていると、次のような文章をよく見かけます。

『不動産鑑定評価を定義するならば、一般の商品の価値が自由なプライスメカニズムの下で形成されるのに対し、不動産は個別性が強く、市場も極限されているので、自由なプライスメカニズムが成立し難い。不動産、特に土地の適正な価格を求めようとすれば、合理的な市場の価格形成機能に代わって不動産の適正な価格を判定する作業が必要となる。
このような意味で、不動産の鑑定評価とは合理的な市場があったならば、そこで形成されるであろう正常な市場価値を表示する価格を、不動産鑑定士が的確に把握することを中心とした作業である』
このような表現も「あるべき価格論」を彷彿とさせるものです。

いままで、(2/5「不動産鑑定評価で求める価格とは」参照)不動産の交換価値は売買(交換)という行為の中で生み出されること、その価格は情報の不完全性故にバラツキが大きいこと、従って鑑定評価で求める価格は売買価格の期待値と考えると理解しやすい、ということを話してきました。

期待値を求めるには(不動産の売買価格の)確率分布があらかじめ与えられていなければなりませんが、勿論現実にはそんな都合のいいものはどこにもありません。
100円硬貨を弾き上げて、表が出るか、裏が出るかというようなものは、いわば「仕組みの見えている不確実性」ですが、不動産の売買価格(市場)は「仕組みの見えない不確実性」(注)です。
不動産鑑定士の仕事は、この仕組みを推測して、売買価格の期待値を判断することですが、その判断に至る過程に、どれだけの客観性を持たせられるかが、いわば勝負どころだと思います。

(注)「仕組みの見えている不確実性」「仕組みの見えない不確実性」と言う言葉は、小島寛之「使える確率的思考」(ちくま新書)184頁からの借用です。

むかし、私が勤めていた会社の資料室で、「不動産の鑑定評価に関する法律」ができた昭和38年前後の評価書を見たことがあります。
それは全部で2〜3行ぐらいで、内容は「評価先例価格、その他の資料を参考にして○○円と評価した。」といったものだったと記憶して」います。
当時はそれでよかったわけですが、今はそうはいきません。よし、あしは別にして、今の世の中、何ごとにつけても、客観性、科学性が求められます。
つまるところ、不動産鑑定士の仕事は判断することですが、その判断の範囲が狭まって、客観性、科学性が増せばその分説得力は増すことになるのだと思います。

私達はその努力を続けていく必要がありますが、そのためには、求めるべきもの(対象)を明確にすることが最低限必要です。

「あるべき価格」は議論や思弁の対象にはなりますが、観測の対象にはなり得ません。
その意味で、「あるべき価格論」からの脱却はとても重要なことだと思います。

観測の対象とすべきは、あるがままの不動産市場です。

人間はいつも合理的に行動するとは限りません。人間はそれほど合理的にはできていません。気まぐれ、思いつき、判断の誤り等々は人間にはつきものです。(注)
また、個人にとっては合理性の追求であるはずの「投機性」は、それが社会全体にどんな不合理性をもたらすものであるとしても、市場から切り離すことはできません。

これらをすべて含んだ現実の市場を対象とする必要があります。


(注) 「人間はいつも合理的に行動するとは限らない」という前に、人間の行動は「合理的」「非合理的」というふうに分けられるものだろうか、という疑問があります。不動産鑑定評価の話(2/5)で、100円硬貨を弾き上げて、「表が出たら1万円がもらえて、裏が出たら何ももらえない」というゲームに1回だけ挑戦する権利の価格はいくらか、という話をしました。期待値は、
1万円×0.5+0円×0.5=5,000円でした。

人はこの権利を本当に5,000円で買うだろうか?というのが問題です。勿論買う人もいれば、買わない人もいますが、10人のうち何人が買うだろうか?と考えた場合、おそらくほとんどの人が買わないだろうということです。4千円でも買う人はそんなに多くないだろうということです。(モノの本に書いてありました、何の本か忘れましたが)。考えられる理由は、裏が出て4千円失う主観的リスクが、表が出て1万円もらえるという期待(主観的)効用を上回っているからだと思われます。

一方「年末ジャンボ宝クジ」はどうでしょうか?この宝クジの理論的期待値は私には解りませんが、我が家が何十年も買い続けても全然あたらないことから推測すると、限りなく「0円」に近いものと思われます。しかし、多くの人がこの宝クジを買います。理論的期待値は先の100円硬貨弾き上げゲームと較べて遙かに小さいにもかかわらずです。この場合(宝クジを買う人の場合)は、宝くじに当たって1億円もらえる期待(主観的)効用が、(例えば5千円分宝クジを買って) 5千円を失う主観的リスクを上回っているからだと考えられます。

100円硬貨弾き上げゲームに4千円でも挑戦しないことは合理的な行動でしょうか?不合理な行動でしょうか?年末ジャンボを買うことはどうでしょうか?

結論はそんなことを考えること自体に意味がないということだと思います。期待効用は人によって異なります。金持ちか、貧乏か、気が強い人か、弱い人かによっても違います。同じ人間でも、朝と晩では違うと思います。


PICT7476.JPG

宮城県大崎市三本木の「ひまわりの丘」です。




















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2009年06月18日

収益還元法

不動産鑑定評価の話(4/5)

できれば、古い方から読んでください。

収益還元法による収益価格は交換価値ですか?


 「還元」と言う言葉は普段「ナントカ還元セール」「ナントカ還元水」等、いろんなところで使われていますが、収益還元法での「還元」するとは、「前の状態に戻す」という意味で使われています。

「収益」を前の状態に戻すと、資本(元手)になるというわけです。
頭で操作した(考えた)資本ですから、「機能資本」との対比で「擬制資本」といわれています。
つまり、収益還元法で求めた収益価格は、市場で形成された価格ではなく、頭で考えた「理論価格」です。

 不動産市場は基本的には交渉市場ですが、そこには、需要者(買い主)と供給者(売り主)がそれぞれ留保価格をもって現れます。
留保価格とは「需要者(買い主)であればその不動産を買ってもよいと考える上限値であり、供給者(買い主)であれば、その不動産を売ってもいいと考える下限値のこと」(注1)です。

(注)前川俊一「不動産価格はどのように決まるのか」(市場特性と価格形成のメカニズムを考える)http://www.academyhills.com/gijiroku/maekawa/24fudosan.html

収益還元法には、この買い主の留保価格を決める(買い主が意思決定する)ためのシュミレーションの手段としての役割があります。

バブル崩壊前は、「土地価格は上がり続ける」という「土地神話」があったために、取引価格はほとんど、収益価格を超える水準で決まっていたと考えられます(証明はできませんが)。買い主にしても、買った土地(の価格)が将来上がることが約束されていれば、高い買い物だとは思わなかったと思います。土地を所(保)有し続けることは、保有資産の(価値の)増加を意味しました。

しかし、土地神話崩壊した今、土地を所(保)有し続けることにそれほどの意味がなくなりました。人々の意識は「所有」から「利用」へと大きく転換したといわれています。同時に利用(収益)と「価格」との関係が今まで以上に意識されるようになりました。

土地取引価格の下落に付随して起こったこれら諸々のことが、特に取引価格の水準が需要者(買い主)の考える収益価格に近づいてきたことが、収益還元法のステイタスを上げることになりました。最近は「不動産の価値は収益還元法で決まるようになってきた」という論調まで目にするようになりました。

しかし、これは言い過ぎです。というよりも不動産価格の「本質」を見誤っていると思います。

交換価値は「市場」という装置の中で生まれるもので、収益価格が即交換価値になることはありません

交渉市場」では売り主は「なるべく高く」、買い主は「なるべく安く」と考える(企む)のは古今東西かわらない原則で、「所有」から「利用」へと意識が変わっても、この原則は何ら変わりはありません。

最近(平成17年〜19年末頃)仙台市の都心商業地域でも、ミニバブルとでもいうべき取引価格の急騰がありました。主役は投資ファンドです。投資ファンドは収益還元法(DCF法)による収益価格で投資不動産を取得している、といわれています。しかし、不動産の取引価格を上昇させたのは収益還元法ではありません。都心商業地域という狭いエリアの中での不動産獲得競争が取引価格を急騰させたのです。

収益価格は交換価値ではありません。仮に、収益価格を算定してみたところ、1億円になる不動産があるとして、これを今、処分(売却)したら1億5千万円になる場合、収益価格の1億円の方がこの不動産の交換価値を体現しているという理由はどこにもありません。

収益価格は頭の中で操作した(考えた)理論(机上)価格です。

「あるべき価格」と「あるがままの価格」のどちらか、と問われたら、勿論「あるべき価格」の範疇に属するものです。

ところで、不動産鑑定評価の中での収益価格については、素朴な疑問があります。それは次のようなものです。
今まで強調してきたように、不動産の交換価値は、現実の市場で(交渉の結果として)生み出されます。一方収益価格は、市場参加者(主に買い主)の頭の中にあります。不動産鑑定評価の目的は現実の市場での交換価値を求めることです。この交換価値を求めるのに、市場参加者の頭の中にある理論(机上)価格を求めて、それからどうする、いう疑問です。

鑑定評価の世界では、試算価格を、『A比準価格、B収益価格と、並列させて、両価格を調整して鑑定評価額を決定する』ということになっています。
しかし、このような理屈は、『本来A=Bであるべきだ』という「あるべき価格論」が背景になければ成り立たないのではないかと思います。
本来一致すべきものが、一致しない場合は、「何故一致しないのか?」とあれこれ詮索し、その原因を見つけ出す、というのなら調整文としてはよく解る筋立てですが、モトモト一致するはずのないものが、(予定どおり?)一致しない場合、「なぜ一致しないのか?」とアレコレ騒ぎ立ててもしょうがないのでは?と思います。

A=Bが成立するということは、AとBの間にある市場が合理的市場(注)であることを意味します。

現実の市場はそのような意味では合理的ではありません。

(注)ここでいう合理的市場とは経済学でいうところの「完全競争市場」と考えていいのだと思います。経済学でいう「完全競争市場」とは次の要件を満たす市場のことです(だそうです)。

1.小さな(小規模)生産者と消費者が多数いる。
2.すべての市場参加者はすべての商品の性質と価格を知っている。
3.すべての同じ商品は(同じ商品名である限り)完全に代替可能。
4.すべての市場参加者が、市場への参入・退出が自由である。

PICT7213.JPG

宮城県多賀城市市川にある「みちのくの遠の朝廷(みかど)」多賀城址です。この周りにはいくつかの歌枕が存在しています。

















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2009年06月02日

バブルと不動産鑑定評価

不動産鑑定評価の話(3/5)

できれば、古い方から読んでください。

**バブル時の不動産価格**


 不動産鑑定評価で求める価格は、現実の市場での価格でなければなりませんが、このあたりまえの確信が時として揺らぐことがあります。

バブルの時に現れる不動産(特に土地)の売買価格を目の前にした時です。バブルの時は売買価格の期待値が急激に大きくなります。確率分布そのものが大きくシフトしてしまいます。

その原因は経済的な要因なのですが、不動産の持つ特性がそれを増幅しているということは云えるかもしれません。これまで、鑑定評価の実践を通じて養ってきた自分なりの感覚を大きく超えるバブル時の売買価格は、次のような「疑念」を抱かせるに充分なものです。

『不動産鑑定評価で求める価格はあるがままの価格でいいのだろうか? 本来あるべき価格を求めなければいけないのではないだろうか?』という疑念です。

『うつろう現実の世界を超えて真実の世界がどこかにあるかもしれない』という想いは、私達の思考に常につきまとう影のようなものです。

バブルの時、私達は不動産の価格を、また、不動産の鑑定評価で求める価格を、どのように考えたらいいのでしょうか。

例え話から始めます。

いまA、Bという二人の不動産鑑定士がいたとします。1年半前にバブル(らしきもの)が始まって今が真っ最中です。
この二人が、都心の商業地の同じ土地の鑑定評価を依頼されました。

周囲の土地価格(売買価格)は1年半前に較べてほとんど2.5倍になっています。依頼された土地の期待値も1年半前は100万円/uだったものが、今は250万円/uになっています。

この状態を前提にして、この土地の期待値について考えてみます。
評価時点の期待値は250万円/uですが、その後1年間はこの期待値のまま推移し、丁度1年後にいわゆるバブルがはじけ、一夜にして期待値が125万円/uに下がり、その後はこの125万円/uのまま変化なく推移するものだとします。

そしてこのことをB鑑定士だけが正確に見通していたとします。A鑑定士はこのことを何も解っていません。

そして、二人はこの土地を次のように評価しました。

A鑑定士:250万円/u
B鑑定士:132万円/u

B鑑定士の理屈は次のようなものです。

(以後この土地の期待利回りを5%として話を進めます)
この土地の1年後の期待値は125万円/uなので、この期待値の現在価は、

125万円/u+1/(1+0.05)≒119万円/uであり、

250万円/uで推移するこの1年間の期待収益は、

250万円/u×5%≒13万円/uであるので、

評価時点の期待値は、

119万円/u+13万円/u=132万円/u

というものです。

上のA、B鑑定士のどちらが不動産鑑定評価の評価額にふさわしいでしょうか。

ここで、価格時点以後の、この商業地の期待値の推移を3つのケースとして示します。

ケースA:
価格時点での価格(期待値)は250万円/uで、その価格は未来永劫変わらないで推移します。


ケースB:
価格時点から1年間だけは250万円/uで推移しますが、丁度1年目で、半分の125万円/uになり、その後はこの125万円/uのまま推移します。


ケースC:
価格時点の価格(期待値)は250万円/uですが、それ以後はこの価格がどのように推移するか解らない状態です。


 普段私達が不動産の鑑定評価を行う場合、常にケースCの状態に置かれています。つまり、価格時点における(売買価格)の期待値は250万円/uですが、価格時点以後この価格はどのように推移するか解らない状態です。

これと較べて、ケースA、Bの場合は価格時点以後の期待値の推移があらかじめ解っています。

このAの場合は、価格時点におけるこの資産価格は250万円/uです。

そして、ケースBの場合は、

価格時点におけるこの資産価格は(先のB鑑定士が計算したとおり)132万円/uになります。

不動産鑑定評価で求める価格を「価格時点における売買価格の期待値」という立場からいえば、ケースBの場合でも、鑑定評価額は250万円/uでいいことになりますが、資産としての価値を正しく把握するという鑑定評価の目的に照らせば、132万円/uの鑑定評価額のほうが優っていることは明らかです。(自分が価格時点でB資産を購入することを考えてみてください)250万円/uで購入しますか?

このように考えてくると、「不動産鑑定評価で求めるべき価格」は「将来の期待値の変動も織り込んだ価格時点における期待値」と一般化していいのではないかと思います。

普段私達の鑑定評価は、常に上記の「ケースC」の状態に置かれています。
そしてこの場合は(通常の場合ですが)、価格時点における250万円/uが(将来どのように推移するかわからないので)、とりあえず価格時点以後も250万円/uのままで推移することを前提として評価していると考えられるのです。

試しに、先のB鑑定士と同じやりかたで、この場合(250万円/uが未来永劫250万円/uのままで推移する場合)の価格時点における期待値を計算してみます。

例えば、10年後(何年後でもいいのですが)の期待値250万円/uの現在価値は、
        
250万円/u×0.613913≒153.5万円/uです。
(※0.613913は期間10年、年利率5%の複利現価率です。)

250万円/uで推移するこの10年間の期待収益(想定地代)は、

250万円/u×0.05≒12.5万円ですので、今後10年間の期待収益の現在価値の総和は、

12.5万円/u×7.721735≒96.5万円/uなります。(※7.721735は期間10年、年利率5%の複利年金現価率です)

従って、価格時点における期待値は、

153.5万円/u+96.5万円/u=250万円/u
です。
つまり、普段の私達の鑑定評価は結果として上のケースAの状態での資産価値を求めていることになるのです。

このようなわけですから、先のA、B両鑑定士の評価は、B鑑定士の方が正しいのです。但しもし、評価時点以後、期待値が250万円/uのまま推移するのであれば、その時はA鑑定士の評価の方が正しいことになります。

100万円/uから250万円/uへの急激な期待値の上昇は、バブルによるものではなく、何かのファンダメンタルズによる上昇だったということになります。

バブルだった場合、A鑑定士の評価が非難されるのは、彼が将来を見通すB鑑定士のような「神の眼」を持っていなかったことが原因ですが、しかし世間の非難はそのような表現にはなりません。世間の非難は「この鑑定士は収益還元法を重視しなかった。」「本来あるべき価格を求めなかった」というような「あるべき価格論」の問題として論じられることになります。「あるべき価格論」は現実の世界の話ではありませんので、いつまで議論しても埒があくことはありません。


(蛇足)
バブルの時、B鑑定士の価格(評価額)について、次のような批判が当然出てくると思います。「実際に取引されている価格が250万円/uなのに、B鑑定士の鑑定評価額(132万円/uで)は、何の役にも立たない」という批判です。
一見もっともな考えに思えますが、・・・

バブルの最中、ある投資(投機?)家は土地の価格(売買価格)がまだまだ上がると思っているので、この土地を今買って、転売することを考えているとします。

250万円/uで買って、350万円/uで売れば莫大な儲けが期待できます。そこで鑑定評価を依頼します。当然250万円/uの鑑定評価額を期待するでしょう。この投機家にとって、B鑑定士の評価額は何の役にもたちません。この評価額では買えないからです。

しかし、転売先の某氏(某会社)にとってはどうでしょうか。1年後の資産価値が125万円/u(価格時点の価値は132万/u)しかないこの不動産を350万円/uで買う損失(被害)から免れることになるのです。

鑑定評価がいつも依頼者の役にたつなどということはあり得ない話です。




PICT7209.JPG


PICT7211.JPG


上が多賀城市市川にある「多賀城碑」で、下がその覆堂です。
城は神亀元年(西暦724年)に置かれ、碑は天平宝字6年(西暦762年)修造されたと記されています。

芭蕉は当時発見されたばかりのこの碑を訪れた時の感動次のように書いています。
「ここに至りて疑いなき千歳の記念、いま眼前に故人の心をけみす。行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労も忘れて泪も落つるばかりなり」

芭蕉はこの碑を坂上田村麻呂が「日本中央」と刻んだ「壺の碑」(壺のいしぶみ)と思っていたそうです。しかし、「壺の碑」は本来「都母(つも)の碑」の意味で、その場所は青森県上北方面のことだそうです(岩波ジュニア新・書高橋富雄「東北歴史紀行」より)
















































 
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2009年05月23日

不動産鑑定評価で求める価格とは

不動産鑑定評価の話(2/5)

できれば、古い方から読んでください。

**不動産鑑定評価で求める価格とは?**

 不動産鑑定評価が、世の中に必要とされる理由は、前回話したようなものだとして、それでは不動産の鑑定評価で求める(べき)価格とはどんなものでしょうか。

実は、これはとても難しい問題なのです。

不動産鑑定士が、何をいまさら、と思われるかもしれませんが、これから進める「少し長い話」を聴いて頂ければ解ってもらえるのではないかと思います。

「不動産鑑定評価で求める価格とは何か?」という問いかけは「不動産の価値とは何か?」という問いかけと同じです。

そして、この問題を考えるには、不動産も含めての「モノの価値とは何か?」という問題は避けて通れません。

そこでまず、「モノの価値とは何か?」ということから話を始めます。

みなさん既にご存じのように、モノ(商品)には使用価値と交換価値(市場価値)というふたつの側面があります。
モノ(商品)に使用価値がなければ、交換されることもないでしょうから、そのモノは交換価値を持ちません。

しかし、使用価値があるものはすべて交換価値を持つとは限りません。
例えば、水は人間にとって必要不可欠なモノですが、それがふんだんに手に入る場合は交換価値を持ちません。

重要なことは、我々はモノの使用価値を何かの尺度(物差し、秤など)で量って、それを交換価値として現すということができないということです。

モノに交換価値があり、そしてその交換価値がいかほどの量を持つのかということは、そのモノ(商品)が売買(交換)される行為によってしか、明らかになりません。

というよりも、、モノの交換価値は交換(売買)という行為によって生み出されるといったほうがいいかもしれません。

つまり、モノの交換価値はそのモノに実体的に存在する力ではなく、ある「体系」(注1)の中での他のモノとの「関係性」・「差異性」(注2)でしかないのです。

解りにくいと思いますので、喩え話をします。
将棋の話をします。

将棋は、9×9=81マスの将棋盤の上でのゲームですが、将棋の駒は両軍合わせて40枚、8種類あります。

この8種類の駒はそれぞれ独自の働き(機能)をもっています。例えば香車は、だたひたすら真っ直ぐ進みます。

将棋はこの駒のそれぞれの働き(機能)があって成り立っています。
この働き(機能)は、擬えてみれば、モノ(商品)の使用価値に相当します。

ところが、ある対局の、ある局面に注目してみますと、その局面での駒の価値は、他の駒との連携、対立の中での相対的な位置で決まります。

局面によっては、歩が飛車角よりも大きな力を持つことがあります。
また、下手から見た将棋盤の右上の隅(1,1)の位置にある下手の香車には何の価値もないでしょう。

つまり、将棋というゲームは、8種類の駒それぞれの機能(使用価値)なしでは成立しませんが、戦闘状態にある、ある局面での駒の価値は、その体系の中での、他の駒との相対的な位置関係によって決まるということです。

ある「体系」の中での、他のモノとの「関係性」・「差異性」というのは、そういうことを意味しています。

モノの価値と同じように、不動産の交換価値も交換という行為の中で生み出されるものだとしたら、また、それが不動産の特性(情報の不完全性)のためにバラツキが大きいのだとしたら、不動産の鑑定評価で求める価格とはどのようなものだと考えたらいいのでしょうか.


(注1)体系
体系という概念は、ちくま学芸文庫「言葉とは何か」(丸山圭三郎)の74頁で次のように説明されています。
『体系というのは、多くの場合「個々の要素が相互に関わりあっている総体」というふうに解説されます。しかし、それだけでは、部分としての個があらかじめ存在している実体のように思われかねません。ソシュールの言った言葉の体系は、全体があって始めて個が存在するものであり、そこでは独立した個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく、全体との関連と、他の要素との相互関係の中で始めて個の意味が生ずるような体系なのです。』
    

(注2)関係性・差異性
「関係性」・「差異性」という概念は朝日新書「わかる現代経済学」(根井雅弘)43頁以下(一般均衡理論の思想から借用しました。
「モノの価値とは何か」という命題は、経済学では「価値論」の分野で伝統的に扱われてきたものです。労働価値説では価値は「実体概念」ですが、一般均衡理論では「関係概念」と考えられています。

 
PICT6724.JPG

宮城県大崎市川渡温泉の菜の花畑です



モノの価値(交換価値)と同じように、不動産の交換価値も、交換(売買)という行為の中で生み出されるものだとしたら、またそれが不動産の特性(情報の不完全性)のためにバラツキが大きいのだとしたら、私達は不動産の鑑定評価で求める価格をどのようなものだと考えたらいいのでしょうか。

このことを考えるきっかけとして、ひとつのゲームをとりあげたいと思います。
そのゲームとは次のようなものです。

100円硬貨を弾き上げて、「表が出たら1万円貰えて、裏が出たら何も貰えない」というゲームです。

このゲームに1回だけ挑戦できる権利に価格をつけるとしたら、いくらにつけたらいいでしょうか。

「0円か1万円のどちらかです」というのも、ひとつの答えかもしれませんが、あまり出来のいい答えだとは思えません。

確率論(統計学)の世界ではこのような場合、次のような計算をします。

(表が出た場合のもうけ)×(表が出る確率)+(裏が出た場合のもうけ)×(裏が出る確率)
=  1万円    ×    0.5      +      0円      ×   0.5
=  5,000円

そしてこれを期待値と呼んでいます。期待値の一般式は次のようになります。

期待値=r1×P1+r2×P2+・・・+ri×Pi+・・・+rn×Pn

(ri : 確率変数   Pi : 確率)


これはなかなか都合のいい概念ではないでしょうか。このゲームに挑戦して、1万円もらえるか、何ももらえないかは、やってみなければわかりませんが、挑戦する権利の価格(1ゲームの価値)は計算(評価)できるのです。
言ってみれば、どうなるかわからない不確定なものの評価額なのです。

不動産の鑑定評価で求め価格もこれと同じように、期待値と考えてみるのはどうでしょうか。
つまり、ある不動産はいくらで売れるか(いかほどの交換価値として表象するか)は、実際、売買してみなければ解りませんが、表象する売買価格の確率分布が解っていれば、期待値を求めることでその不動産の評価額が求まるということになります。

「確率分布が解るんだった苦労はしないヨ」という声が聞こえてきそうです。
確かに、そのとおりなのですが、「概念」には思考を促す力がある、ということで、とりあえず、了解して頂きたいと思います。

 この期待値の概念をキーワードにして不動産市場について少し話したいと思います。かなり独善的な話ですが、話のタネぐらいにはなるのでは、と思います。
過疎化している小さな地方都市の不動産市場の話です。人口2万人ぐらいの田舎町を想像してください。

この町の一画に自分の財産(宅地)を売りたいと思っている人がいたとします。先祖代々の財産なのであまり安かったら売らない方がマシだと思っており、その下限値は1u当たり1万円だとしておきます。

そしてこの不動産の売買価格の確率分布は次のようなものだとしておきます。

1u当たり4万円〜3万円で売れる確率  20%
1u当たり3万円〜2万円で売れる確率  60%
1u当たり2万円〜1万円で売れる確率  20%

この分布での期待値を求めますと、

35,000円×0.2+25,000円×0.6+15,000円×0.2=25,000円
となります。

最も現れやすい売買価格は25,000円/u(前後)ということになります。
ところが、人口が減少し、高齢化しているこの町では不動産(宅地)に対する需要はとても少なく、なかなか買い手が見つかりません。売れないことも充分考えられます。つまり、上の分布のような価格で売れることもあるかもしれませんが、売れないことも考えられます。
そしていま、この売れない確率が50%だとします。
すると、上の確率分布は次のように書き換わります。


1u当たり4万円〜3万円で売れる確率  10%
1u当たり3万円〜2万円で売れる確率  30%
1u当たり2万円〜1万円で売れる確率  10%
売れない(0円で売れる)確率      50%

この状態で期待値を求めますと、

35,000円×0.1+25,000円×0.3+15,000円×0.1+0円×0.5=12,500円 となります。

これは何を意味しているかと言いますと、売買価格として最も現れやすいのは、25,000円/u前後ですが、この不動産の交換価値(評価額)は12,500円/uということを意味しています。

ところで、この2番目の確率分布はとても不自然な形をしています。もし、ある程度の市場メカニズムが働けば、このような分布は永くは続かないで、売買価格が下がることによって、需要と供給が均衡するはずです。

しかし、宅地の取引が年間で2〜3件ぐらいしかないこの町の不動産にはこのような市場メカニズムが働かないかもしれず、その場合には、2番目の確率分布のような不自然な形が結構長期間続くのではないか、と思います。
そしてこのような状況では、時々とんでもない安い売買価格が現れると思います。さきほど、先祖代々の財産なので余り安かったら売らない方がマシ、だという話をしをしましたが、中には僅かでも、現金に替えたいと思う人が当然いると思えるからです。

以上は市場メカニズムが余り働かない地方都市の話ですが、それではもう少し市場メカニズムが働くところはどうでしょうか。例えば私が住んでいる町でどうでしょうか。

私は仙台市北西部のある住宅団地に住んでいます。陳腐な団地で、金太郎アメみたいにどこの場所(画地)も同じようなものです。

前回の話の(世の中に不動産鑑定評価士は必要ですか?)で、卵10個入りパックの話をしましたが、、スーパーで同じ(ような)卵のパックが何十個も積まれていると、イメージ的には似ています。

取引の件数も(卵と比べものになりませんが)かなり多く、年間20〜30件ぐらいは現れるのではないかと思います。このような場所では売買価格の確率分布が容易に想像できますし、バラツキの程度もかなり小さいことが、実際の売買価格から読み取れます。それでも卵の価格のバラツキと較べたらかなり大きいのですが。












    








posted by くつざわ at 20:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月16日

世の中に不動産鑑定士は必要ですか

不動産鑑定評価の話(1/5) 

これから少し長い不動産鑑定評価の話を始めます。何回かに分けて話します。できれば、日付の古いほうから読んでください。

***世の中に不動産鑑定士は必要ですか*** 

 子供がちいさかった頃、「お父さんはどんな仕事をしているの?」訊かれ、「土地や建物に値段をつける仕事だよ」と答えたら、「エーッ!、人のモノに!、それでお金が貰えるの?」とつっこまれて、タジ、タジとなったことがあります。

また、私の母は、さいごまで、私の仕事の内容を理解していなかったと思います。「不動産屋さんはイッパイ(競争相手が)いるから大変だろう」といっていたのを覚えています。説明するのも面倒なので、その時は否定しませんでした。

つまらないことをいいましたが、ことほどさように、不動産鑑定評価の社会的認知度は低いということを言いたかったのです。

そこでまず、「世の中に不動産鑑定評価は、あるいは不動産鑑定士は必要か」ということから、話し始めたいと思います。

 私たちが普段、モノ(例えば卵10個入り1パック)を買う場合、「ハテ、この卵の値段は、はたして妥当であろうか?」などと思い悩むことはないと思います。卵に値段(販売価格)をつけるのは、スーパーマーケットの支店の店長か、本店の担当者か、私には解りませんが、いずれにしろ誰かが、「今日は143円にしようか、いや145円がいいかな」などと悩みながらつけているに違いありません。

一見したところ彼等は自由に(意のままに)卵に値段をつけているように見えますが、はたしてそうでしょうか。

実は、彼等の背後には彼等をあやつる目に見えない巨大な力が働いていると考えられます。その力は「市場メカニズム」と呼ばれています。
 「私たち(会社も含めて)がそれぞれ、自分の最大効用と最大利潤を目指してめいめい自由に行動すれば、市場メカニズムが働いて、需要と供給が均衡し、モノ(商品)には妥当な値段がつき、資源は有効に配分される」と考えられています。

つまり、卵1パックに値段をつけているのは、本当は店長でも、本店の担当者でもなく、「市場メカニズム」だったというわけです。

そして私たちは、この卵の値段の妥当性に疑問を持つことは、まずないと思います。

それは多分「市場メカニズム」に対する信頼があるからだと思います。少なくとも支店の店長や、本店の担当者に対する信頼ではないと思います。

それではと当然思います。不動産の値段も市場(メカニズム)に任せておけばいいのではないでしょうか。

ところが、そうもいかないようなのです。

市場メカニズムがいつでも、どこでも、どんなモノに対してもうまく働いてくれればいいのですが、どうも、そうはうまくはいかないのです。

経済学では市場メカニズムがうまく働かないことを「市場の失敗」と呼んでいます。その失敗のパターン(類型)にはいくつかありますが、そのひとつに「モノやサービズ」に関する「情報の不完全性」があります。不動産の場合も情報が不完全なのです。

 今、私の手元にふたつの土地取引の実例があります。同じ土地が短い期間のうちに2回取引されました。要するに転売されました。

仙台市の都心に近い、150u程度の住宅地(更地)なのですが、最初の取引価格はuあたり約16万5千円で、約3ケ月後に約24万で売買されました。

なぜ、このようなことがおこるのでしょうか。いろいろな面で情報が不足しているからだと思われます。

まず、最初にこの土地を売りたいと思った人は多分、今この土地がいくらぐらいで売れるのか、わからなかったと思います。

買った人はあるいはわかっていたかもしれません。わかっていたとしても黙っていたほうがその人には得だったでしょう。

また、最後に買った人は、都心に近い便利な土地を捜していたのでしょうが、売りたいと思っている人がどこにいるかわからなかったでしょう。

もし、わかっていれば最初の地主と直接交渉してもっと安い価格で買えたかもしれません。

その場合は最初の地主はもっと高い価格で売れたかもしれません。間にたって儲けた人はこの二人よりは情報を少し多く持っていたと考えられます。

この人はこの情報力の差を儲けたといえると思います。

 不動産の取引では、このようなことがあたりまえだとしたら、これから不動産を買おうと思っている人や、売ろうと思っている人、担保にとろう思っている人などは、この土地の本当の(妥当な)価格はいくらなのだろうかかと、悩んでしまうのではないでしょうか。

そのあたりの事情に詳しくて、中立的な立場の人がいれば、その人の意見を聞いてみたいと思うのではないでしょうか。


 世の中に不動産の鑑定評価も、不動産鑑定士も必要だという理由はこのようなことだと思います。

続く
 
PICT6725.JPG

宮城県大崎市川渡温泉の菜の花畑です
posted by くつざわ at 17:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする